パリの異邦人 その1 〜ロシア人〜 [パリ]
下記は、ちょっと古いデータですが、INSEE(フランス国立統計経済研究所)の調べによる2004年時点でのフランスに移住してきた人たちの主な数字です。
アフリカ 100,567人
欧州 64,597人
アジア 29,310人
米大陸・オセアニア 15,545人
不法入国者も入れるとどのくらいの数字になるでしょう???
今回のシリーズは、パリに住む移民・外国人の話です。毎回、シンボルとなる場所や催し物、料理などを紹介します。
ロシア革命以降、特に1920年代に、大勢のロシアの貴族たちがフランス(パリやニース)に亡命してきました。それ以前も、寒さを逃れてフランスに長期滞在する貴族もおり、それを証明するかのように、パリ8区には、1861年、ナポレオン三世時代に作られたサン=アレクサンドル・ネフスキー大聖堂があります。
映像は→こちら
映像の後半では、16区の高級住宅街にある、かつてのロシア人住宅や、帝政ロシアの繁栄をとどめるアレクサンドル三世橋も登場しました。パリへ行って、この橋を渡らなかった人はいないでしょう。パリの橋の中でも一番豪華絢爛。1900年のパリ万博の時に落成しました。
またキャヴィアで有名なレストランも登場しました。“Restaurant Le 144”といい、パリ7区にあります。1920年代にパリに初めてキャヴィアを紹介したペトロシアン兄弟(Petrossian)が作った会社がそのルーツです。第一次世界大戦中の母国アルメニアの混乱を逃れた二人は、当時フランスでは知られていなかったキャヴィアを持ち込み、この商売で成功を納めます。その後、サーモン、ます、うなぎ等々の海の幸へも商売の幅を広げ、そのビジネスは子孫へと引き継がれ、現在ではレストランの経営も行っています。
手元にある2006年度版の赤いミシュランガイドではPétrossianという名前で出ています。スプーンとフォークのマークが3つ。一階でキャビアやイクラなどの商品を販売し、二階がレストランになっています。フライパンで作っていたのはカニ料理です。よく見ると、先日、当ブログの実践編で紹介した「茄子のキャビア」(以前の記事は→こちら)をお客に出してます。本物のキャビア入り???それとも気の利いた冗談のつもりかな?
ロシア革命後にパリにやってきたロシア人にはこれといった特技はありませんでしたが、車の運転が出来たため、タクシーの運転手になったそうです。1920~1930年代のパリでタクシー運転手といえばロシア人だったとか。また、1920年代の終わり頃、パリは一大ロシアブーム。あちこちにCabarets Russeという、お酒を飲んだり食事をしながらロシアのショーを楽しめる店がありました。そのうちのいくつかは今も残っており、映像の最後に出て来たお店"Nikita"もその一つです。
「私はロシア人です。今日、初めてフランス人のガールフレンドの両親と夕食をともにしました。私がロシア人だというと、やおら父親が立ち上がり、5リットルもあるウォッカの瓶を私の前に置き、こう言いました。『証明してみろ』」
ロシア正教会の教会の屋根。確かに西ヨーロッパの、それもパリで
見るとすこし違和感、エキゾチックな感じがします。
色々な文化が融合する街ですね。そこから色々なものが作り出されている。
興味深いです。
by orange (2010-10-20 23:44)
素敵な橋でしね~~☆
現実に渡ってみたい・・・^v^
by ぷりん&りく (2010-10-21 03:42)
orangeさん
教会も最初は木造の小屋だったそうです。
本家のお許しが出て、資金が集まって、あのりっぱな教会ができたみたいです。
パリは都会なのでやはり様々な人種が生活していますね。郊外に行くとさらに外国人に出会う機会が多くなります。
by carotte (2010-10-22 09:25)
ぷりん&りくさん
ちょっとやそっとでは壊れそうもないりっぱな橋です。
ぜひ渡ってみて下さい ^^
by carotte (2010-10-22 09:29)
日露戦争の際、日英同盟のおかげで日本は相当救われました。当時は、ロシアとフランスが同盟関係にあったから、欧州の盟主であった英国が露仏両国を牽制するために日本を支援してくれたとか。この両国の濃厚な関係のおかげで日露戦争に勝てたといえるのかもしれません。
by opas10 (2010-10-23 17:20)
opas10さん
ナポレオンはロシアからの撤退を余儀なくされてしまいましたけど、フランスには今でのロシアに好意的な人がわりに多いですね。
フランスのロシア人について詳しく調べるといろいろ面白いことが出てきそうな感じがします。
by carotte (2010-10-23 18:42)